Die Zeit Nr.50 9.Dezember 1999 (「ツァイト」第50号 1999年12月9日)

ヨーロッパは境界を引くべきか

EUは扉を閉ざすべきである たとえばトルコに対し

ヨアヒム・フリッツ・ファンナーメ

冷戦が終わり、いよいよ始まった欧州連合の拡大が「鉄のカーテン」の終焉を告げる。歴史的な課題と機会の到来である。しかしこれをもって欧州連合はその境界に達したのである。これ以上は政治的にも心理的にも能力の限界を越える。しかし中にはそれ以上の要求を掲げる者もいる。「トルコもEUに加盟すべき」というのである。とりわけ安全保障政策担当の政治家や戦略家がこれを主張する。彼らは1963年以来数十年間一貫してこの考えを変えていない。1963年にトルコ政府と当時のEECの間で結ばれた連合協約で承認された事柄が、このたびヘルシンキで具体的な形で約束されるのである。これは欧州の政治的連合の終焉の始まりを意味する。

なぜなら昨日は同盟の南の安全を確保し、今日はペルシャ湾からコーカサスにかけての危険地帯の安定化をはかろうとする安全保障政策家の要求は、ヨーロッパの境界をヨーロッパからはるかに広げることになる。トルコがEUに加盟すれば、一夜にして私たちはイラン、イラク、アルメニア、アゼルバイジャンを隣国とすることになる。しかもトルコは、ギリシャやキプロス同様、これらの国々に対しても決して良好な外交関係を築いていない。トルコ外交を「全方位悪夢」と評した批評家もいる。急速に増加する人口と傷つきやすい誇りと出稼ぎ労働者の問題を抱える母国の救済をヨーロッパに求める人々がいるのも不思議ではない。

 EU加盟により国粋主義的あるいはイスラム的な運動を沈静化させるという考えには不遜の感があるにせよ、トルコの加盟にはたしかに安全保障政策上の論拠があろう。しかし欧州連合は同盟ではない。課題は別にある。統合の時代におけるヨーロッパ政治の観点からはトルコの加盟は破壊的な影響をもたらす。これは加盟候補国トルコの厄介な性質ばかりではない。むしろこの一歩によってヨーロッパというプロジェクトが境界なきゲームに陥るおそれがあるからである。

 1957年のEECからマーストリヒト、アムステルダムの諸条約まで、ヨーロッパ連合の提唱者がヨーロッパに境界を引かずに済む時代はもはや終わった。この排他的なクラブの会員券は、これまでの規則によれば、民主主義の優等生で、真の市場経済、人権の尊重という条件を満たしていれば申請できた。境界はまったく問題にならなかった。幸いにもたまたま北、西、南は海に囲まれており、おのずと果てがあった。しかし東に対してヨーロッパ半島は地理的にも歴史的にも開かれている。実際、冷戦当時、ヨーロッパ大陸の分断が西ドイツ一国の利害からしても到底受け入れられない時代にも、ヨーロッパ共同体は東に対して開かれていたのである。

 冷戦は過ぎ、大きなヨーロッパは再びその輪郭を取り戻した。今高望みをすれば、成果は少なくなる。なぜなら欧州連合は、たとえその規則がどれほど複雑で、諸機構がどれほど絡み合っていようとも、単に魅力的な域内市場というにとどまらない。ユーロが導入された今ではなおさらである。加盟国は共通の政治を唯一独特の方法で模索するのであり、これが私たちの隣国とそのまた隣国を魅きつけるところなのである。このような連合体にはある種の集中性が必要である。ただし全体の性質に関してではない。そのためには小さなクラブの構成国がそれぞれあまりに異なっている。集中性が必要とされるのは可能な範囲である。それはとりもなおさず自己の境界を定め、規範を外ならびに内、すなわち、すでに12の加盟候補国の拡大を重荷に感じているヨーロッパ市民に対しても規範を定めることである。最近プローディ欧州委員長が「もう欧州連合が何であるか、その境界がどこにあるかを決定すべき時である」と述べた。静かな驚きとともに、遅ればせながらこの認識がプローディ委員長に限らず広まりつつある。その答えはただひとつ:欧州連合はヨーロッパ政策を遂行できる態勢になくてはならない。そのためには分かりやすい、憲法のような規制制度が必要なのである。そのためにはまさに明確な境界が必要になる。さもなくば巨大なユーラシア市場への道が待っている。今、トルコ加盟を承認すれば、将来ウクライナが加盟申請をした場合、拒否できなくなるであろう。その次はカザフスタンあるいはキルギスタンかもしれない。あるいは、われわれは何もかも受け入れ、誰にも門戸を開いて、韓国(ちなみに加盟条件をすべて満たしている)をも受け入れねばならなくなるかもしれない。ローマ条約の条文のみを引き合いに出す者は、ヨーロッパというプロジェクトを壊すことになるのである。条約は守らねばならない。すなわち発展させねばならない。加盟国はこれまでそのように行動してきたのである。

 第三の道、たとえば同心円システムにおけるような段階をつけた部分的な加盟の可能性はあるだろうか。これはいわばお粗末な残念賞のようなもので、臆病な試みと言わざるをえない。制度機構のバルカン化をもたらすだけである。管理統制の困難な、ほとんど統治不可能の、官僚事務的に分裂した地域がその帰結である。欧州連合を大胆な政治的プロジェクトと考える者にとっては、堪えがたい結末となろう。ストックホルムからリスボンまで、ほとんどすべての首脳は、それぞれ言明するところによれば欧州連合を政治的プロジェクトと捉えている。それゆえ彼らはもう拒絶をする時にきているのである。  うしろめたい態度からは拙劣な政治しか生まれない。トルコは大きな国であり、尊敬すべき隣人である。しかしブリュッセル・クラブへは入会すべきでないし、してはならないのだ。

原題:Braucht Europa Grenzen?
Die EU muss ihre Tueren schliessen, zum Beispiel fuer die Tuerkei / von Joachim Fritz-Vannahme

訳:中島大輔(C)